- JLogos検索辞書>
- 平川村(近世)とは
「平川村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期の村名津軽郡田舎庄のうち陸奥湾に突き出た夏泊半島の東部山麓に位置する天正年間には,福館に居を構えていたという七戸隼人の家臣団の侍屋敷が置かれていたという(平内町史)はじめ弘前藩領,明暦2年分家黒石領,文化6年からは黒石藩領村高は,「正保高帳」43石余,「明暦2年検地帳」では「小湊之内平河村」と見え20石余(田18石余・畑2石余・屋敷6斗余),「元禄2年郷帳」では福館村と合わせて141石余(田130石余・畑6石余・屋敷4石余),「寛保高辻帳」「天保郷帳」ともに43石余「明暦2年検地帳」によれば,田は中田・下田があり,畑には大豆・小豆・麻などが植えられていた「旧高旧領」には村名が見えず,また明治初年の「国誌」では福館村の支村として戸数11が記されていることなどから,当村は江戸末期には福館村に吸収されたと考えられる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平川村(近世) 江戸期の村名球磨【くま】郡のうち平河村とも書く球磨川支流川辺川下流の山間部に位置する晴山村・田代村・初神村と当村の4か村を四浦と総称する人吉藩領村高は,「寛永郷帳」44石余,「正保郷帳」も同高でうち田10石余・畠33石余,「天保郷帳」56石余江戸中期の諸郷地竈万納物寄(斉藤氏所蔵文書/人吉藩の政治と生活)では,当村など4か村の名は見えず,「四浦」として記されている江戸末期までに四浦村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」